第5回は、繊維・ファッション業界最大の専門紙である繊研新聞を発行している株式会社繊研新聞社の山田様にお話をお聞きしました。

ー記者という立場でキラリと輝く企業を応援したいー

  き物に縁があり、運送会社から記者の道へ

私のキャリアスタートは記者じゃなかったんです。新卒では、学生時代から運送のアルバイトをしていたこともあり、運送会社に入社しました。運送会社では休んだドライバーがいると、誰かがその配達エリアの穴を埋めるために働くことになります。そのため、当時は穴埋めのためにも仕事自体が長時間労働になってしまい、僕自身がヘトヘトになっていました。

そんな中、会社が廃業になることを知り、新卒で入った運送会社を退職することになりまして、、
どこに転職しようか考えていたところ、大学在学中に文章を書いていた経験があったことや、同級生が産経新聞やデイリースポーツに勤めていたご縁が重なって、ファッションや繊維業界の情報を扱う繊研新聞に入社することになりました。25歳から記者の道に進むことになったんです。

  国の発展の一方で、国内生産の落ち込みを知る

入社した90年代後半から2006年くらいまで、約10年間素材メーカーや商社の担当をしていました。それに加えて、当時中国の繊維事業の取材も担当していたんです。そのため、出張で北から南まであちこち周っていました。当時は 中国が世界の工場になる前で、縫製を中心にものづくりとして日本がどんどん伸びていた時代でした。

僕は新工場の建設や、初年度700店舗を予定しているブランドの立ち上げなどを主に取材し、次から次へと新しいプロジェクトが生まれる面白さを感じていました。しかし、中国がどんどん発展していくに伴って、2000年には日本のアイテムのほとんどが海外縫製になっていき、日本国内の生産が衰退する状況が起きてしまいました。

中国の人は商業的なので、売り上げ次第でメーカーから不動産などに業界を切り替えることも珍しくなくて、言ってしまえばどのような形でも生き残るように経営されますが、一方で日本の企業は、どれだけ生産が衰退しても、親の跡を継いだり、事業転換したとしても自社以外のブランドの製品を製造するOEMを扱ったりする企業が多かったので、全体的に海外縫製に切り替わっていく中でのダメージが大きかったわけですね。

自分が国外に目を向けて記事を作成している間に、国内の生産では疲弊が起きていたことに気付き、そこを転機に国内を中心としたメーカーさんに取材することを増やしていきました。国内を取材するうちに、小さな工場でも自らSNSなどで発信をしたり、ブランドを立ち上げたりと、素敵な企業さんがたくさんあることに気づいていきました。

  くことを通して企業とつながり、輝く企業を見つけることが仕事の醍醐味

僕が書いた記事が、たまたま大きな規模の会社の生産担当の方の目に止まり、繊研新聞から企業と企業がつながって商談や仕事が始まることがあります。そういった報告を受けたときは、やはりこの仕事をやっていて良かったと感じます。

ほかには、輝くものを持っている企業や、自社に誇りと地域愛を持っている企業に出会えるのも、この仕事の醍醐味です。長年この会社でさまざまな企業に取材をして記事を書いてきた中で、今は中小企業やOEMなどの応援をしたいと思っています。

最近では片道6時間かけて高知県宿毛市の縫製工場に行きました。よさこいの衣装で全国シェア7割を占めている工場で、ものづくりにおいても光るものがありました。このように、現在も興味を惹かれる会社があれば、割とフレキシブルに地方にも取材へ行っています。僕の仕事への原動力は好奇心かもしれませんね。

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  張時の新幹線内で「ビズッパ」が大活躍

東京へ出張に出る際に新幹線に乗る機会が多く、今までは靴を脱いで、その上に足を置いたりしていました。でも見た目が少しかっこ悪いんですよね。そんなときにローファータイプのビズッパをいただいたんです。ビズッパは一般的なビジネスシューズに比べて、足がすごく楽なのにかっこいい見た目なので気に入っています。蒸れないため、履いていても不快感がなく、移動で脱ぎ履きするときに特にビズッパの良さを実感しています。

服にしても靴にしても、1つのアイテムを大きく売るのではなく、さまざまなシーンで使いこなせるアイテムが求められる時代に日本全体がなってきたように感じます。ビズッパはその先駆けとして、たくさんの方にその良さを実感してもらいたいですね。